アートディレクターは孤独な仕事?
今日は、鎌ケ谷市の洋菓子店の壁画の現場です。
私の現場での仕事は、アートディレクターとして壁画に命を吹き込むことです。
制作初日は、現場の環境や状況を見ながら、絵のレイアウト、各パーツの大きさや位置、色のトーンなどをシュミレーションしながら決定し、制作が軌道に乗るまで立ち会います。
中間は何度か現場に行き、当初のイメージや工期通りに進行しているかをチェックし、修正の指示をします。
何といってもクライマックスは、制作最終日です。
私が現場に入った途端、現場はピリピリした空気に包まれます。
バレーボールの監督のように、私の厳しい指示が飛びます。
私自身は筆は持ちません。
でも、オーケストラの指揮者のように、よりいい作品に向けて全スタッフを誘導しなければなりません。
最終日の後半になると、空気はピーンと張りつめ、さっきまで笑っていたスタッフの顔はいつの間にか真剣な顔に。
私の指示がだんだん小刻みになります。
残された時間のなかで少しでもいい作品にするためには、どこに重点をおくか、逆に何を切り捨てるか。
私の中で葛藤が始まります。
描いているスタッフには、絵の全体的な出来栄えや見る人にどんなふうに映るのかがほとんど見えないのです。
視点がミクロ的になっていること、1日中絵を見ているため目がマヒしてしまっていることが原因です。
ですから、絵についての最終判断はアートディレクターの目にゆだねられます。
壁画の現場では、どこまで描き続けるかより、どこで止めるかが大変重要です。
描けば描くほどよくなるかというと、逆の結果になることも多いからです。
一番いい状態に近づいたときに止める、これが結構むずかしいのです。
和自身、長く絵を見続けて慣れてしまわないように、現場を頻繁に離れます。
また、冷静でニュートラルな感受性を維持するために、気分転換をします。
この業界に入ってはじめて、作品の良し悪しは制作スタッフの技術よりも、アートディレクターの采配によることが大きいことを身をもって知りました。
最後の2時間。
私もスタッフも最も緊張する時です。
技術的なうまい下手よりも、絵が生きているか死んでいるかが 重要です。
人に感動や驚きを与えない作品は、はっきり言ってゴミです。
私は通行人になって、いろんな位置から歩きながら壁画に目をやります。
時には、ドライバーになっていろんな方向から走ってみます。
何かが足りない。
何かが弱い。
それは何か!
何百回となく現場を踏んできたにもかかわらず、いまだに最後はもがきます。
それは、時間との戦いだけではなく、スタッフたちの疲労困ぱいの姿がプレッシャーとなって追い討ちをかけてきます。
現場は2、3時間も通うところがほとんどで、朝5時半集合、夜10~11時帰宅が普通ですから1週間2週間と続くと、スタッフたちの顔にも疲労が見えてきます。
たまには、スタッフたちがカリカリして、一発触発の険悪なムードの時もあります。
早く終わらせてあげたい。
でも、後々まで残る壁画だから、妥協して後悔したくない。
孤独と板挟みのなかで、どんどん追いつめられていきます。
お客様は、「こんなにいいできなのにまだ何かやることがあるんですか」と言ってくれます。
でも、何か納得いかない。
最後に求められるのは、私の自信に満ちた決め手の指示です。
「背景をボカせ」とか「この部分にハイライトを入れろ」とか「ここのシャドウを強調しろ」など、ごくシンプルで明快な指示。
それなのに、たったそれだけで絵が見違えるくらい生き生きとしてくる。
その一言の指示をひらめく瞬間が、クライマックスです。
その場になって考えるのではなく、数日前から悶々として夜も寝つけないこともよくあります。
それだけに、私の最後の指示で見違えるように作品がよみがえった時は、まさに逆転ホームラン。
スタッフたちの顔がくしゃくしゃになって、疲れた顔が満足そうな達成感に変わって一緒に喜びを分かち合います。
さあ、祝盃じゃー!
だから、この仕事はやめられない。