幸手宿「永文商店」のシャッターアート完成!
幸手宿の昔の面影を再生する「幸手宿シャッターアート」の第一弾が完成です。
横町鉄道と呼ばれるトロッコのある老舗店の「永文商店」です。
明治時代に魚屋として開業し、その後は酒屋に転業。
「永文」とは、創始者の永島文太郎さんから取った屋号です。
現在は、オーナーの目利きで全国から集めたこだわりの酒と食材を販売しています。
中でも人気なのが種子島から取り寄せた「安納芋の壺焼き」です。
今回の歴史絵物語のキャンバスは、店正面のシャッター2枚、右側の出っ張った横引きシャッター1枚、それに2階建て側面の波トタンの壁です。
この店の明治以前の歴史は定かではありませんが、江戸時代には廻船問屋だったと伝えられています。
そこで、正面のシャッターには、「廻船問屋」をテーマに、船着き場で荷役作業をしている人足の姿を表しました。
建物側面の壁には、幸手宿を立ち寄ったといわれる松尾芭蕉と弟子の曽良の旅姿を高さ5メートルの巨大な線画で描き、街道のシンボルをめざしました
側面の波トタンは経年変化が進み、塗装の剥げと赤さびが何とも言えないいい風合いだったので、その趣きを生かすために有彩色の使用を控えて乳白色の線だけで表現しました。
シンプルですが、力強さと繊細さにこだわりました。
2つの絵をつなぐ横引きシャッターには、幸手市の名物である権現堂の桜をイメージして桜の枝を描き、そこに芭蕉と曽良が幸手宿で詠んだといわれる句を添えました。
この句は、近くの正福寺に句碑として残っているものです。
ところが、ちょっと疑問が残りました。
曽良の句は、「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」の五・七・五の俳句で意味もわかるものですが、
芭蕉の句は、「幸手を行かば 栗橋の関」となっていて何か変です。
上の句が抜けています。
しかも、最後が七・七で終わっているということは、五・七・五・七・七の短歌だったのかも知れません。
松尾芭蕉の研究家や松尾芭蕉全集などもチェックしましたが、わからず仕舞い。
謎を残したまま仕上げるのには躊躇しましたが、想像で処理するわけにもいきません。
多分、句碑を建立した時代にも同じ物議を醸したのでしょう。
上の句が脱落したこの俳句(または短歌)の上の句を想像するだけでも、また楽しいですね。
幸手の人々が、この句を巡って当時の時空に思いを馳せてくれたら素敵ですね。
そんな期待を込めて、制作終了です。
ご近所の電気屋さんの協力で、ライトアップもご覧の通り。
まもなく始まる権現堂の桜まつり。
期間中に70万人も花見に訪れるそうです。
権現堂の桜以外に幸手宿の魅力にも目を向けてもらえたらいいですね。
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追記(2013.4.3)
前出の芭蕉の句についての疑問に対して、読者の方から電話がありました。
そして、芭蕉の詠んだ七・七の句は、曽良の五・七・五に連ねて詠んだ連歌(れんが)だったのだろうということを教えてもらいました。
調べてみると、連歌とは平安時代から鎌倉時代に流行ったらしく、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)をそれぞれ別人が詠む形式で、江戸時代には井原西鶴や松尾芭蕉も好んで詠んだようです。
今でいうコラボレーションの作品だったんですね。
賢くなりました。
わざわざ教えていただきありがとうございました。